9月10日、私はWTCを真下から見上げていた — 25年目に書き残しておく

9月10日、私はWTCを真下から見上げていた — 25年目に書き残しておく

9月10日、私はWTCを真下から見上げていた — 25年目に書き残しておく

毎年9月11日になると、必ず思い出すことがあります。普段この社のブログには技術の話しか書かないのですが、今年でちょうど25年になるので、一度きちんと書き残しておこうと思いました。

当時、私は日本の大学を休学してトロントの学校に通っていました。夏休みを利用して、韓国人の友人とレンタカーを借り、ボストン・ニューヨーク・ワシントンDCを回る旅に出ました。その旅の途中が、ちょうどあの日でした。

9月10日、マンハッタン

前日、私はマンハッタンにいました。ワールドトレードセンターを、真下から見上げていました。

あの二棟は、下から見ると本当にどうかしている建物です。首が痛くなるまで反らせても最上部が視界に収まらない。「こんなものを建てるのか」と思いながら、しばらく突っ立って見ていた記憶があります。翌日にはもう存在しないものを見ていたのだと、あとから何度も思い返しました。

その日の朝、私は珍しく日本の親に国際電話をかけています。当時は貧乏学生で、国際電話は高く、めったにかけるものではありませんでした。何の用事だったかは覚えていません。ただ、その電話で「明日はニューヨークのマンハッタンを観光するつもり」と話してしまったのです。

これが、あとで親を地獄に突き落とすことになります。

予定を変えた、その判断

その日は天気がかなり悪く、雨が降っていました。友人と車の中で軽く話し、「今日はマンハッタンはやめて、先にボストンに行こうか」ということになりました。深い理由はありません。天気と気分と、そのくらいの相談でした。

この判断をしなかったら、翌朝どこにいたのか。正直、いまでもわかりません。

旅程を組み替えて北へ向かい、翌朝、私たちはボストンにいました。

情報のない車中

異変に最初に気づいたのは、目でした。

ボストンの街を走っていると、異常な数のパトカーが、ニューヨーク方面へ向かって走っていくのです。一台や二台ではない。何かがあったのは明らかでしたが、それが何なのかを知る手段がありませんでした。

2001年です。携帯電話は持っていません。インターネットも今のようには発達しておらず、旅の途中で情報を得る手段はテレビかラジオしかありませんでした。カーラジオのチューニングを合わせ、断片的な英語のニュースを聞き取ろうと二人で苦労しました。

「飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んだらしい」

最初にそれを聞いたとき、私が思ったのは、恥ずかしながらこの程度のことです。

――大丈夫かな。あとでマンハッタンを観光するときに、影響が出ないといいな。

事故だと思っていたのです。昨日見上げたあの建物が崩れ落ちるなどということは、想像の範囲外でした。

時間が経つにつれて、情報が少しずつ形になっていきます。事故ではなくテロであること。二棟とも崩落したこと。ペンタゴンにも突っ込んだこと。アメリカ中の飛行機が飛ばなくなったこと。そして——カナダとの国境が封鎖され、車でも戻れないらしいということ。

そこでようやく、「これはちょっとやばいのでは?」と思いました。

宿泊先のテレビに映る、崩落現場からの生中継

親への電話

公衆電話から日本に国際電話をかけました。

親は、日本大使館にまで私の安否確認をしていました。

前日の電話で「明日はマンハッタンに行く」と聞かされ、翌朝テレビであの映像を見て、連絡手段はなく、息子がどこにいるかもわからない。親がその24時間をどう過ごしたのか、私はいまだにきちんと想像しきれていません。

あのとき、ただ「大丈夫だよ」と言っただけだった気がします。改めて——ごめん。

帰れないので、旅を続けた

飛行機は飛ばず、国境も越えられない。帰ろうにも帰れないので、私たちは旅を続けることにしました。ほかにやりようがなかった、というのが正確です。

マンハッタンは立ち入り禁止でした。それでも近くを走る高速道路からは、街の一角が見えました。大量の粉塵が舞い上がり、いくつものサーチライトが、その粉塵を貫くように夜空へ立ち上がっていました。捜索は昼夜を問わず続いていたのだと思います。あの光景は、写真よりも先に頭に焼き付いています。

ワシントンDCに入り、高速からペンタゴンが見えました。飛行機が墜落した箇所は、外壁が黒く焦げ、路肩にはコーンとクレーン、規制線が延々と並んでいました。走る車の窓から、慌ててシャッターを切った一枚が残っています。

高速道路から見えたペンタゴン。左手の建物が焼け落ち、クレーンが作業をしていた

ワシントンDCでは、リンカーン記念堂もワシントン記念塔も規制線が張られ、中に入ることはできませんでした。観光地としてのDCは、完全に閉じていました。

そして、どこを見ても星条旗が半旗でした。

半旗に下げられた星条旗に囲まれた、夕暮れのワシントン記念塔

記念塔を囲むように立つ旗が、全部、一段下がっている。あの光景だけは、説明を聞かなくても意味がわかりました。国が喪に服しているというのは、こういうことなのだと。

買った新聞

旅の途中で買った新聞を、私はいまも持っています。

2001年9月13日付 The New York Times 一面

9月13日付のニューヨーク・タイムズ。一面の見出しは「STUNNED RESCUERS COMB ATTACK SITES, BUT THOUSANDS ARE PRESUMED DEAD(呆然とした救助隊が攻撃現場を捜索、しかし数千人が死亡と推定される)」。脇には「BIN LADEN TIE CITED」「FEW PLANES FLYING」の文字が並んでいます。

瓦礫と化したワールドトレードセンター跡

上空から撮られた跡地の写真。斜めに突き刺さった外壁の破片。その手前の瓦礫の上を、人がアリのように歩いている。スケールが掴めなくて、しばらく紙面を眺めていた覚えがあります。

ワールド・ファイナンシャル・センター前に立つ州兵

そしてビジネス面には、規制線の前に立つ州兵の写真。見出しは「An Emblem of Concern and Anxiety(懸念と不安の象徴)」。ニューヨークの金融街に迷彩服の兵士が立っている絵を、当時の私は現実のものとして処理できませんでした。

25年経って読み返すと、この紙面には「これから何が起きるか」がまだ書かれていません。犯人の追跡と、株式市場の混乱と、空港の再開見通し。その先に20年の戦争が続くことを、誰もまだ知らない紙面です。

その後の25年

ここから先は、私が体験したことではなく、私たちが見てきたことです。

あの後の世界が、当時の誰かの予想通りに進んだとは思えません。アメリカは10月にはアフガニスタンに軍を送り、2003年にはイラクに踏み込みました。ウサマ・ビン・ラディンが殺害されたのは2011年、それでも戦争は終わらず、米軍がアフガニスタンから撤退したのは2021年でした。20年です。私が旅行中にラジオで断片的なニュースを聞いていたあの日から、20年かかって、出発点に近いところに戻ってきた。

同時に、私たちの日常のほうも静かに作り替えられました。空港のセキュリティは別物になり、靴を脱ぎ、液体を捨て、全身をスキャンされるのが「当たり前」になりました。愛国者法に代表される監視の枠組みが整えられ、テロ対策の名のもとで国家が個人を見る解像度が上がりました。特定の宗教や出自の人々に向けられた疑いの目は、いまも完全には消えていません。

そして憎しみは、当事者だけのものでは終わりませんでした。あの時アメリカ人の中に生まれた感情の熱量を、私は旅の途中で肌で感じました。半旗と、星条旗と、「God Bless America」の看板と。その熱が、その後どこへ向かって、何を生み、何を壊したのか。25年分の答え合わせは、正直、あまり気持ちのいいものではありません。

いま、世界は別の戦争を抱えています。ウクライナがあり、ガザがあり、名前のついていない緊張がいくつもある。9.11の直接的な延長線ではないものも多いけれど、「報復は報復を呼ぶ」「敵を単純化した側が長期的には高い代償を払う」という構図は、悲しいほど似ています。分断は当時より深く、しかも今は、情報が多すぎることによって深まっている。

2001年の私は、ラジオのノイズの向こうに何が起きたのかを掴むのに丸一日かかりました。いまなら、事件発生の30秒後にスマホが震えるでしょう。けれど、その30秒後に届く情報が正しいとは限らない。何が起きたかを知るのが速くなったぶん、何を信じるかで人が割れるのも速くなりました。情報が足りなかった時代の不安と、情報が多すぎる時代の不安は、別の顔をした同じ不安のような気がしています。

当たり前の日常は、前日には見分けがつかない

毎年9月11日になると、私は決まって同じことを考えます。

当たり前の日常が崩壊した日。

だって、9月10日の私は、あの建物を真下から見上げていたのです。首を反らせて、「でかいな」としか思っていませんでした。その24時間後にそれが消えてなくなり、世界がその後20年以上それを引きずることになるなど、あの時の私には1ミリも見えていませんでした。

天気が悪かったから予定をずらした。ただそれだけの、何の意味もない判断が、いま思えば私の人生の分岐点になっていたかもしれない。そして分岐の向こう側では、ただ普通に出勤しただけの人が、3000人近く帰ってこなかった。

そこに教訓めいたものを見出すつもりはありません。25年経っても、うまい結論は出ません。ただ、崩れる前日の風景というのは、崩れる前日にはまったく普通に見える——ということだけは、あの日以来、私の中でずっと動かない事実として残っています。

今日、25回目の9月11日を迎えました。


参考リンク